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2019.06.26(最終更新日:2020.06.29) Dr.崔の ユーラシア大陸横断記

Vol.9 国境を越える

 2日がかりでカトマンズに到着した。案の定というか期待を裏切らないというか、旅行代理店で説明を受けた旅程とは程遠いものだった。旅行代理店の説明では、朝の8時半にヴァラナシを出発し、インド側の国境の町スノウリに着くのは夕方。国境を越えて1泊し、翌朝再びバスに乗り込んでカトマンズ着は夕方17時ということだった。ある程度の遅れは覚悟していたが、カトマンズに到着したのが18時過ぎだったから、全然ましだったと考えるべきなのかもしれない。しかし1日目がひどかった。スノウリでバスを降りたのが21時。途中、あり得ないほどの渋滞に巻き込まれた。どちらかといえば渋滞など縁がなさそうな田舎道なので何故渋滞しているんだろうと不思議に思っていた。あり得るとすれば事故ぐらいのものである。遅々として進まない状況が随分と続いた。カップラーメンであれば立て続けに50杯は作ることが出来ただろう。インド人達に食べさせてやりたかったくらいだ。徐々にバスがスムーズに走り出し、しばらくすると線路を通過した。列車とトラックが衝突事故でも起こしたのだろうか?線路の上でトラックが横倒しになり、片側通行となっていたのだ。そこは車や人がごった返しており、茶色の制服を着た警察官と思しき数人が交通整理を行なっていた。察するに警察官が現場到着し、交通整理に当たり出してから通行がスムーズになったと思われる。警察官がいない状況では、秩序だった行動をインドの人々に求めるのは難しいのかもしれない。
線路を越えてしまうと、バスは快適なスピードを取り戻した。
車窓には夕日を浴びたインドの田園風景がどこまでも続いている。頭に載せた籠のようなものを手で支え、3・4人で畦道を歩く人のシルエットが浮かび上がる。
日も暮れてきて幾分涼しくなり、バスの窓から入ってくる風が頬に心地よい。
さらに暗くなってくると、田や畑の中に点在する家々の軒先や窓から明かりが漏れてきて、実に幻想的な車窓となる。日本とは異なり、暗闇の中に所々頼りなげに明かりが見えるので、実に人の生活の温かみを感じさせるのだ。バンコクの食堂でも感じたことだが、どうやら私は薄暮の時間帯が好きらしい。少しノスタルジックな気分になりながらバスに揺られ続けた。
 スノウリでバスを降りた時、気にかかっていたのは、こんな時間に国境を越えられるのかということだった。バスには欧米人や日本人のツーリストがたくさん乗り込んでいたのだが、お互い言葉を交わしてみてもはっきりしたことをいえる者は誰もいなかった。しかし、夜遅い時間に着いたにもかかわらず、国境は開いていた。一人一人の手続きに時間がかかるので、最後の方に並んでいた私が国境を越えるのは随分遅くなった。パソコンなどこの世に存在していることを知らされていないような、実にアナログな出入国審査だった。我々の手書きの申請書を見て、係官が台帳に手書きで情報を記載していく。ネパール側のイミグレーションオフィスの机の上では蝋燭の炎が揺らめいていた。
ネパールに入国してチェックインした宿はどうしようもないくらいオンボロだった。
浴びる気持ちをそぐ為に汚くしてるんじゃないかと思わせるほどひどい状態のシャワー室で汗を流し、ルーフトップレストランで冷たくもないビールを喉に流し込んで床に就いた。
 翌日のバスはツアーバスではなかった。
旅行代理店でツアーを申し込んでいる以上、目的地まではノンストップ、少なくとも大きな町以外は止まらないのが常識的と思われるが、それはあくまでも日本での常識なのである。このバスは正真正銘ローカルバスだった。ここで、ヴァラナシから来たツーリストは、カトマンズ行きのバスに乗る者とポカラ行きのバスに乗る者に分かれることになっていた。私はカトマンズ行きの旅行者が極端に少ないのを目にした時、嫌な予感がした。アジアのバスは正直で、採算の合わない運行はしない。我々の人数が少ないのを見て取って、ツアーバスを出すのを止めたに違いない。抗うことの出来ぬままローカルバスに放り込まれ、ある程度の乗客が集まるのを待つ羽目になった。運転手はバスの入口で車体を叩きながら行き先を叫び、客を集めている。しばらく待つとぽつぽつではあるが地元の人達が乗ってくる。運転手が納得すれば出発の運びとなり、がたごととバスに揺られることになる。その先は、町に着けば広場と呼ぶに相応しいバスターミナルに停車し、客が集まるのを待つ、客が集まれば出発して次の町に向かうという繰り返しだった。それがたとえどんなに小さな町であってもだ。
 朝早い時間から長い時間バスに揺られているわけだが、車窓からの景色はインドとは劇的と言っていいほど異なっていた。インドでは高い山を見ることはほとんどなく、だだっ広い平原を疾駆していくという感じなのだが、ここネパールでは山間部の道を喘息よろしくエンジンをあえがせながら登っていくのである。窓からは山の斜面にへばりつくように棚田が見受けられる。道の片側はかなりの高度差がある断崖絶壁になっており、その底には川が悠々と流れている。
実にのどかな光景で、どこかしら日本の田舎を思い起こさせる風情がある。景色はのどかなのだが、断崖ぎりぎりをバスが通行するスリルはなかなかのものである。断崖の底にトラックが横たわっているのを目にした時などは、ゆっくりでもいいからどうか無事カトマンズに到着してくれと祈りたくなるのだった。登り降りを繰り返し、何度も客集めの為に停車し、いくつもの峠を越え、徐々に高度を上げながら、バスの前方に町が見える度にあれがカトマンズかと期待しては違ったと落胆し、たったの1時間遅れでカトマンズに到着したのはやっぱり御の字だったのだろう。
昨夜遅くに国境を越え、今朝早くに出発した為にネパールの金を持たない私は、飢えと渇えに打ち勝ち、ただ犀の角のように歩んだ結果、カトマンズの土を踏むことが出来た。カトマンズはバックパッカーにとって安住の地と呼ぶに相応しい。物価は安く、インドのように買い物の度にけんか腰にならなければならない事もない。人々の顔つきもインドに比べると格段にアジア的である。各国料理はもちろん、比較的まともな日本食にもありつける(私は自分のルールにより口にはしなかったが)。何と言ってもネパールはヒマラヤを頂き、様々な国の観光客が訪れる観光大国なのだ。各国料理のレストランが軒を連ねるのも頷ける。もちろん私がネパールに惹かれるのも、そうした安らぎとヒマラヤの存在が大きかった。前回ネパールを訪れた時は、雨季にあたり、ヒマラヤはおろかアンナプルナも雲に隠れてその姿を見せることはなかった。今回こそはと思ってはいるが、残念ながら今回も雨季である。
 いくら安住の地とはいえ、その国の金を持たねば快適な滞在を期することは出来ない。私はタメル地区というカトマンズの安宿街に宿を定め、早速ネパールルピーを手に入れる為、ATMでまとまった金額を引き出した。
カトマンズですべき事は二つ。一つはヒマラヤを望む事。もう一つはチベットに辿り着くルートを確認する事である。二つ目が達成できればおそらくは一つ目も成就することになるのだが、この時はまだカトマンズからラサに抜けることが出来るかどうか情報がなかったのだ。当時は2008年のチベット騒乱の影響で、中国政府がチベット自治区への外国人の立ち入りを厳しく制限していた時期だった。個人旅行も可能なのか、あるいはツアーに参加しなければならないのか、はたまた入域自体が不可能なのか、はっきりしたことは分からなかった。
 兎にも角にも、長かったバスの旅の疲れを癒すのが先決だ。私は懐が暖かくなったところで、少し贅沢なチベット料理のレストランに入り、ビールを飲みながら今日初めての食事を口にした。隣の席では登山に来たのであろう年配の日本人達が声高に話していた。疲れていたのだ、たった1本のビールで酔ってしまったとしてもおかしくはない。隣の席の楽しそうな歓談を聞いた後では一人旅の寂しさが身に沁みた。
私はそんな素振りを見せるまいと、そそくさと勘定を済ませ、宿への帰りを急いだ。
急いだとて、そこに誰かが待っているわけではないのだが・・・。

(米盛病院院内広報誌:2011年秋号より)

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