2020.11.24(最終更新日:2020.12.08)
Vol.2 天保山から海を眺めて何を思う の巻|島津斉彬公御陣屋跡
米盛病院周辺の歴史をひも解く新コーナー“よねさんぽ”。
楽しくゆるりとタイムトラベルに出かけましょう!
米盛病院からふと窓の外に目を向けると、そこには雄大な桜島と錦江湾が。
青空の下でキラキラと輝く海に癒やされる方も多いのではないでしょうか。
いつの時代も海は特別な存在。それは「南の玄関口」として琉球や中国と交流があった薩摩藩にとっても同じことでした。
鎖国体制にあった江戸時代。世界の動きに強い関心を持っていた島津家28代斉彬は、海防(※1)の必要性をいち早く認識。欧米列強のアジア進出に危機感を持ち、鹿児島の磯地区周辺に日本初となる工場群「集成館」(※2)を築きます。
そこでは、造船・製鉄・紡績・ガラスなど、強く豊かな国づくりのため、さまざまな事業が行われました。
さらに、軍隊訓練の強化にも力を注ぎました。米盛病院周辺の天保山一帯を調練場(※3)とし、洋式砲術や騎兵などの訓練を行い、指揮所となる陣屋(現 天保山中学校)を設けます。
そして、1858年7月8日、天保山に各隊を集め、合同大演習を実施。これは、幕政を改革するために3,000名の兵を率いて京都へ向かおうと考えてのことでした。
ところが、炎天下の中で終日訓練に取り組んだ斉彬は、直後に体調を崩し、同月16日に志半ばで激動の生涯に幕を下ろします。
名君と称された当主の突然の死に、薩摩藩は岐路に立たされたのでした。
海の向こう側の広い世界に思いを馳せ、今何が必要かを考え、試行錯誤し続けた斉彬。
米盛病院の窓の向こうには、錦江湾が今日も穏やかに波打っています。
※2:2015 年7 月「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録。
※3: 戦の訓練を行う場所。
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島津斉彬公御陣屋跡
天保山中学校内の石碑。国道225 号線側から見ることができます。

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米盛病院 広報課スタッフ取材メモ
海の向こうの広い世界に思いを馳せ、試行錯誤し続けた島津斉彬。
海が与えた影響の大きさを改めて感じました。
米盛病院周辺は、歴史トピックがまだまだ盛りだくさんです!次回もお楽しみに♪